Tattvabodha
Tattvabodhaとは
言葉の意味:Tattva(ものの本質) Bodha (知識)
Tattvabodhaは他のすべてのヴェーダンタのテキストが教えてくれる「すべてのものの本質の知識」がトピックとしています。「すべてのものの本質の知識」と聞くと少しとっつきにくい感じですが、そのすべてのものには必然的に「私」も含まれるので、「私とは何なのか」、「この世界は何なのか」を解き明かしてくれる知識です。
TattvabodhaはPrakaranamと呼ばれ、ヴェーダンタの全体のヴィジョンを整った手順で、端的にわかりやすく教えてくれるテキストです。
他のウパニシャドと呼ばれるヴェーダンタのテキストと同じように、5つのトピックからなっています: Sadhanacatustayam ヴェーダンタの知識を得るための資質 Jiva vicara 私とは何かの考察 Prapanca vicara この世界とは何かの考察 Isvara vicara イーシュヴァラとは何かの考察 Jivesvara aikyam 私とイーシュヴァラの本質が相違ないという知識
Tattvabodhaのもう一つの特徴はヴェーダンタで使われる語彙が詳しく説明されているところです。ですので、ヴェーダンタの勉強の導入本として使われますが、内容はとても濃く、先にも述べたようにヴェーダンタの全体のヴィジョンを教えてくれています。
ヴェーダンタのヴィジョンとは? ヴェーダンタのヴィジョンは人々の、すべての人が持つ根本的な問題を解決してくれる唯一の知識です。
私たちは人間です。動物とは何が違うでしょう?二本足で立ちます。そして発展した脳を持つと言われています。その発展した脳を使って、身の回りのことや人々を知るだけではなく、自分の事も知ろうとします。私たちに与えられている感覚器官ですべてを考察し、ああではない、こうではない、こうに決まっていると様々な決断を下します。そして、その決断によって、自己を確立させています。その決めつけられた自己は常に何かしらの非があり、改善の余地があり、人々はその改善を常に試みます。この自己認識(self-conscious)と自己否定(self-nonacceptance)は人類のみが持つと言われています。私たちに与えられている感覚器官でいわゆる「私」を考察したら、「常に限りがある私」という結論にたどり着きます。「常に限りがある私」は「常にその限りから自由になりたい私」です。限りを見つけ、ありのままの自分を受け入れない状態をコンプレックスと呼びます。人の複雑な(コンプレックスな)心理状況の現れです。ですので、人は様々な方法で何かを得たり、何かになったりしてその何かしらの限りから自由になろうとします。でも、外的要因に頼っていたらいつまでたっても「常に限りがある私」なのです。どんな高学歴の人でも(高学歴の人こそ)コンプレックスがあります。世界一の美人と認められたMiss Universeは次の日からリラックスしてノーメークで街の中を歩けるでしょうか?
すべての「私」には限りがある、というのが通常の結論です。それは「私」を私たちの与えられている感覚器官でとらえられる体や感覚器官、または知性という点でみたら正しい結論です。しかし、ヴェーダンタではその結論は間違いと教えてくれます。
ヴェーダンタの知識を得る過程は、「限られた私」、「いつもなにかしらの非を見つけてどうにもこうにも冷たくあたってしまう私」から、「すべてを受け入れられる私」への成長の過程です。