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Tattvabodha Viraga

Tattvabodha (Tattvabodhaのクラスを受けてくださった方々のための、Pujya Swami Dayananda Sarasvati jiの講義を基にした日本語解説文です。ワード・バイ・ワードの訳ではありません。)

Viraga ヴィラーガ(ヴィラーガのある状態=Vairagyaヴァイラーギャ)

Viragaはよく無執着、禁欲、あるときは無頓着!などと日本語訳されますが、きちんと理解しなくてはいけない言葉です。きちんと理解しないと、日々の生活を罪悪感とともに過ごすことになるでしょう。なぜなら私たちには欲があって当然だからです。また、無理やり欲や願望を抑圧しようとすると、その対象物が余計に頭に残るといった経験をしたことがあるのではないでしょうか。

禁欲、と聞くと欲を持つことが悪いことと理解してしまいますが、欲はあって当然のものです。人のからだは生理的にそのようにできているので。おなかがすいたら食欲が出てくる。健康なしるしです。お金が必要と思うことも悪いことではありません。生きていくためにはお金が必要なのは子供でも知っている事実です。しかし、お金に将来の安全性を見出したり、実際の価値(購買能力)以上のものを上乗せする傾向があります。お金だけではなく、すべてのものに対してその価値を客観的に見ないで、主観的価値を上乗せすると、そのものに対して必要以上の欲が生じます。そして、それがなかったら生きている意味がない、その人がいなければ生きていけない、それがなければ私は幸せになれない、などと自分の幸せをそれらの外的要因に委ねてしまいます。その状態をViragaがないと呼びます。

すなわち Viragaとはものの価値を客観的に見て、そのものは自分のゴール(sadyam)のために役立つもの(sadhana)ではないと気づいたうえで自然と生じる離欲のことです。

この、自分のゴール(sadyam)のために役立つもの(sadhana)ではないと気づくためにはVivekaが必要です。ですので、Vikekaがきちんと備われば、Viragaは自然と身につくと言われています。(Viraga is seeing connection between what you want and what you do)

自分が本当に欲しいものを見極めるのにはVivekaが必要です。Vivekaで自分が求めているのはVedantaの知識のみ、と見極めることができたら、そのほかの物事にViragaをもつのは自然なことです。これが理解できれば、Viragaは無理のある欲望の抑圧でないことが分るでしょう。

では、なぜこのViragaが必要になってくるのでしょうか?人は頭の中に何かしら得たいものがあると心が落ち着かないものです。ですので、Vairaga,Viragaは心を落ち着けてヴェーダンタの勉強にマインドを向けるために必要なのです。その落ち着いたマインドでは、毎日の生活自体がヨーガ(モクシャを得るための手段)となります。 Om Tat Sat

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